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【2020年版】海外トライアスロン&アイアンマンレース 人気&オススメ20選

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念願のコナで、トップ10を目指します。

マレーシア入りした後の最終準備では、いつも通り、アルファ米中心の食事をして、チェックインやバイク預託などでは極力早め行動をして、残った時間はベッドで休憩した。休憩中はレースシミュレーションに時間を割き、特に、昨年のバイクコースの GPS 結果を何度も見返し、重要な箇所やポイントとなるカーブの距離を書き出して暗記した。 レース前日は 17 時に夕食、 20 時前に就寝。当日は 2 時 30 分に起床。 kcal 程度の食事をして 4 時 30 分に出発。 5 時 30 分には会場について 6 時 15 分にバイク準備も完了。念のためトイレも済ませて、 7 時 20 分の試泳開始まで座ってレースシミュレーションを繰り返した。これで何かトラブルが起きてもすぐに対処方法を思い出せる状態にした。 プロのスタートを見届けてから、いよいよスイムスタート。ローリングスタートの 人目くらいで泳ぎ始める。スイムはとにかく飛ばさないことを意識し続けた。事前の練習ではケアンズ前のパフォーマンスを上回ることができなかったので、レース 1 ヶ月半ほど前からは目標を 3。 他選手との身体の接触もほとんどなく、順調に進む。コースは 1。 そんなことを考えながら、昨年よりはかなり体力の余裕を持ってスイム終了。タイムは 1 時間 7 分ちょっとで目標より 1 分遅く、昨年比で 1 分半ほど早まった。スイムの年代別カテゴリー順位は昨年の 33 位から 26 位にアップ。ただし練習に時間かけた割に遅いというのが率直な感想。今後はあまりスイムの改善にこだわりすぎず、他を伸ばしたほうが良いかもとも思う。というのも、同年代の自分より上位の選手の結果を見ると、自分よりスイムが遅い人が 3 人もいたから。スイムが遅くてもその他が圧倒的に強く、それを武器に上位を獲得している。ただし、これはマレーシア大会のレベルの話で、よりレベルの高いケアンズや欧州・北米ではスイムの差が致命的な差になる気もする。悩ましい。オフシーズンにじっくり考えよう。 昨年の課題の一つだった T1 は、着替え時間の短縮のためにカーフタイツと日焼け防止スリーブをなくし、代わり日焼け止めを再度塗る方式に変えたが、結局塗る作業と濡れたウェアの上半身を着る作業に手間取り昨年比 30 秒短縮にとどまる。上位選手は自分より 90 秒くらい早い。日焼け止めはスイム前にしっかり塗っていたのでなくても良かった。あと、事前に濡れたウェアを素早く着る練習をしておけば良かった。

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アイアンマンのすべて/全能力&全スーツまとめ(アベンジャーズ/エンドゲームへ)


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そんなフレーズが気に入った。しかも、誰の助けも必要とせず、自分一人の力だけでやれる。年の第1回皆生トライアスロン大会をテレビで観た私は、トライアスロンというニュー・スポーツの魅力に強く惹かれた。この時、高校3年生だった私は、アメリカン・フットボール(アメフト)に取り組んでいた。チームワークの力で勝利の道を掴むこのスポーツは、それはそれなりに楽しいけれど、自分の力がすべてという自己完結型のトライアスロンをやってみたいと思った。  でも、私はまだ17歳。19歳にならないとトライアスロンに出場することが出来ない。翌年、大学生になった私はトライアスロンへの挑戦を胸に秘め、ランニングの練習を開始した。ランニングは中学生の時、台東区の陸上競技大会3,m競争で優勝した経験もあり、自分でも結構、やれるという自信があった。9月から2ヶ月余の練習を経て、82年11月に東京・江東区の夢の島で開かれた第2回江東シーサイド・マラソン大会(20Km)に出場、結果は後方からのスタートだったが約1,人もの選手を抜いて59位、1時間14分15秒でゴールした。まずまずだと思った。 ラン・トレーニングに次いで、スイムは近くの墨田区立体育館のプールで泳ぎ始めた。50mを1分ペースという、今考えたら実に遅い泳ぎだったが、それでも自分なりに泳げることに満足した。そしてバイクは、私が大学2年生の19歳となりトライアスロンへの出場資格が得られた83年、第3回皆生大会へのエントリーが決った5月からロードレーサーに乗り出した。私にとってこの新しいレーサーは、2万5,円で購入した新品フレームに、同じ大学の友人から提供してもらった中古のパーツを取り付け、組み上げたものである。それで自宅から江ノ島まで往復Kmを走ったが、当時としては 「我ながら凄いことをしている」 と思ったものだ。 このように大会では、猪川さんや西田君等、多くのアスリートと知り合うことが出来た。当時、日本のトップ・トライアスリートだった中山俊行さんも、皆生大会で出会った一人だ。中山さんは競技説明会の席上、バイクのドラフティングの可否について質問していたが、 「そんな質問をする奴は、弱いに決っている」 等と思った。まだほとんどの選手がドラフティングの意味すら知らない時代だったから、私がそのような思いを抱いたのは無理もないが、何と! その中山さんが総合4位で表彰台に上がっていたのだ。 こうして念願のトライアスロン・デビューを果たした私は、一緒にゴールした猪川さんに誘われ年末のJTRC忘年会に参加、その席上で中山さんを改め紹介された。自転車ロードレースを得意としていた中山さんからはバイクの走り方やトレーニング法、或いはトライアスロン・レースのノウハウなど、いろいろなことを教わりながら、一緒に練習をさせてもらった。中山さんに遅れまいと歯を食い縛り、東京・品川の大井埠頭周回コースでペダルを懸命に回した。お陰でバイクも速く走れるようになった。  翌年、84年の第4回皆生大会では6位入賞を果たし、10月にはいよいよハワイのアイアンマン大会に挑戦する運びとなった。でも、大学3年生の私はハワイへの渡航費等、全く持ち合わせがない。そこでツアー代金、約23万円を稼ぐ為、山手線・日暮里駅の立ち食いスタンド蕎麦店でアルバイトを始めた。夜の9時から12時まで、わずか3時間だったが、一生懸命に働いた。アルバイト料は時給1,円、当時としては結構、高収入だったかもしれない。それに、同じ店で働く先輩には仕事を終えた夜中、よく酒場に連れて行かれ、ご馳走になった。こうして私は、周囲の大人達に可愛がられ、助けられ、励まされた。  お陰で私は、学生の身分ながらトライアスロンに取り組めたのだと思う。その初めての84年アイアンマン・ハワイでは、バイク走行中に低血糖となって睡魔におそわれたり、ラン・コースを熟知していなかった為、走行距離を勘違いする等、皆生大会では味わったことのない体験もしたが、総合位でフィニッシュすることが出来た。夜の帳が下りた18時39分にゴール、ゼッケン・ナンバー番と同じく11時間39分のフィニッシュだった。私が参加したトライアスロンの中で、後にも先にも暗くなった夜にゴールした大会は唯一、この大会だった。でも、完走しただけで嬉しかった。また、外国の選手達とTシャツを交換し友達になれたことも貴重な経験だった。 TOP トライアスロンニュース 連載コラム レースレポート レースカレンダー ショップ&スクールリスト。

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